出会った方々からの言葉

「俳舞の君へ」

李御寧(「俳舞」発想・提案者)

俳舞をやってごらん。そう提案したのは、十年ほど前だった。彼女は日本と韓国の文化を共に持っていた。舞踊という身体表現で言葉を越え、なおかつ自らの心を俳句にしていた。
連歌から俳諧を経て確立した俳句。その「俳」の本来の意味は、自由、遊戯性、諧謔性。俳言、俳畫、俳文、俳歌・・・・、そして、初めて、ここに俳舞。彼女だからこそ可能なのだ。
言葉。言の葉は、枝について風に吹かれてもただ揺れるだけ。様式や型に捉われているかぎり自由にはなれない。より強く吹かれ激しく揺れ、ついに葉が枝から離れるとき、何かが新しく生まれる。彼女の<白い道成寺>などの公演は単純な折中ではなく、融合でもなく、両国が共に持っている原型、エッセンスこそを求める作業だった。
金利惠。君が、いま、ようやく木の枝を離れ、風と共に自由に豊かに舞うことを信じてやまない。

李御寧(イー・オリョン)
韓国初代文化相。利花女子大学名誉教授。「俳舞」の発想・提案。
『「縮み」志向の日本人』(学生社)はベストセラーになり、国際交流基金大賞受賞。『蛙はなぜ古池に飛びこんだか』(学生社)により正岡子規国際俳句賞受賞。

「「俳句」の世界に新風」

黒田杏子(俳人・「藍生俳句会」主宰)

2006年「ソウル俳句会」に招かれ、句友と韓国を訪ねた。講演会・句会・吟行会などで大勢の人々に会う。交流会の席で金利惠さんが隣に坐る。美しい人、野心的な人と思った。
日本に生まれ、中央大学を卒業。祖国を知りたいと出かけた韓国で韓国伝統舞踊に出合い、伝説的なアーティスト金徳洙氏と結婚、母親ともなる。この晩、「私は俳句にも本気でとり組みたいのです。」とこの人は言った。
東京で再会した日、私はその朝に手許に届いたばかりの講談社版「大歳時記(全一巻)」を惜しげもなく彼女に手渡していた。
韓国と日本、二つの祖国を持つこの女性は遠からず「俳句」の世界に新風をもたらす。そう予感できたからだった。
さらにこの日、私は長年選者をつとめてきている「日経俳壇」への投句をすすめた。果たして金利惠作品は異彩を放ち、たちまちファン誕生、すばらしいことである。
ところで、「俳舞」の発想ご提案は韓国を代表される文人・思想家の李御寧先生。俳壇にデビューした若き日以来ずっと私は李先生のお励ましを享けて今日に至っている。
李御寧先生と瀬戸内寂聴先生。文字通り日韓両国を代表されるお二人の文人に期待される金利惠。私はいまこの美しきアーティストが創刊三十年を迎える小誌「藍生」の仲間であることを誇りに思い、出合いという縁の恵みをしずかに噛みしめている。

「金利惠、または韓舞に寄せて」

赤坂憲雄(学習院大学教授)

そこには、きっと緑青を溶かしたような深い河がある。
さかいの河が横たわる。
けっしてかろやかではない、むしろ、この人の舞はいつだって途方もない重力に抗いながら、しかも、たおやかに、美しく、つよい。
からだがあたたまってゆく、やがて、重力からなかば解き放たれる瞬間が、不意に訪れる。
そんな転調のときに、幾度か立ち会ってきた、気がする。
あ、と思うと、それはすでに始まっている。
水を掻き分けるように、舞の手が、足が、前へ、前へと誘われてゆく。
まろやかな飛翔のはじまりだ。
水平のむごたらしい力を、まあるい運動に転化してしまう、無化する、魔法だ。
その円環のなかに、祈りが満たされてゆく。
水のひと、女。
紡ぎだされる、すべらかな舞の織物。
からだもて、ことばもて、舞え、渡れ、祈りの河を。
*2009年「韓舞 花と水と光と」プログラムより


「花」

辻 章(作家)

  イギリスのロマン派詩人、ワーズワースに「虹」という詩がある。幼年の時、大空の虹は私の眼に素晴らしく美しかった。青年の時も、中年の今も同じよう に、美しい。願わくば老年にも同じようにあれかし! というような、私の大好きな詩だ。それはつまり、人間の「最初の想い」を持ちつづけていたい、という憧れを歌っている。
金利惠さんと話をしていると、私は時々この「虹」を想い浮かべる。つまり、彼女もまた、常に「最初の想い」を、何に対しても持ちつづけていたいという渇望と、そして実際、持ちつづける才能とを持ち合わせているように思われるからだ。
韓国舞踊に私は何ほどの知識も素養も持ち合わせていない。けれども私なりに、彼女の舞踊への心は、いつも良く伝わってくるように感じている。
それは、彼女と知り合っていつの間にか、すでに三十年近くにもなるが、私の眼には、金利惠さんの舞踊が、いつも、彼女の「韓国社会」というものへの興味や、それについての文章、そしてこのごろ大いに作り出した俳句──それらのすべてと同じ地平でつながっていると、感じられるからなのだ。舞踊も、社会への興味も文章を書くことも作句することも、そのどれもが、これは一体、何なのだろう、なんでこうなっているのだろう、という好奇の心のまっすぐな鮮やかさで、支えられていることが伝わって来るからだ。
金利惠さんの舞踊を、私はただ「美しい」と感じる。美しい、というのは、形や色や所作、動作や、それらの部分のことではない。「美しいって何だろう」 という金利惠さんの好奇、あるいは渇望の心の鮮やかさを私は「美しい」と思うのである。世界とはきっと、ワーズワースと共に、彼女にとってもいつもいつも美しくあるべきだし、うつくしいのだろう、と思うのである。
彼女の句に
語るとも語らざるとも花の下
というのがある。
金利惠さんは、花の下に踊ることに常に想いこがれているのである。
*2009年「韓舞 花と水と光と」プログラムより


「金利惠とは何ぞや…そして、清姫とは…」

芹川藍(劇団青い鳥主宰・演出家・役者・劇作家)

一昨年、ビデオデッキを2台持っているという理由で、初演の『白い道成寺』のダビングを頼まれた。その画面に映っているのはまさに“雪女”であり…白い大蛇であった。妖艶さと凛々しさを受けとったのである。それが私の最初の“金利惠”だった。
その頃の私は、人を探していた。劇団青い鳥30周年記念公演「シンデレラ ファイナル」の、ある大切な場面。胸の奥底に封印された扉…自分であることを証明し、実現させるための鍵をにぎる時の魔王(神様)として、踊って戴ける人をである。「これだー!これだー!」私のカンだった。
そして、その人は東京の下町にある稽古場に、重い荷物を引きずりながら現れた。「すみません…遅れて…金利惠です。よろしくお願いいたします」。いわゆる悪びれる訳でもなく、だからと言って横柄でもない。
「遠くの韓国からですもの…ね」と、その人に気を使わせないように気を使って、悪びれてしまいそうに緊張しているのは、私の方だった。次の日も次の日も、その人はいったい何を考えているのか、何を思っているのか…分からなかった。ゆったりとしとやかに振舞っているにしては、飲むもの食べるものも、しっかりとお腹に収めている。困ったような顔をしているかと思うと、出番を待ちながら、挿入曲“スタンバイミー”に合わせて身体をゆすっている。
滅多なことでお世辞を言わない。嫌となったらトコトン動かぬようにも見える。強い言葉で自己主張をしない。それでいて、体のすみずみから意思があふれていて、なおかつ、彼女をとりまく空気がやわらかなのである。冗談半分で「怒っているの?」と聞くと、「きゃ〜っ」と、はにかんだように微笑みを浮かべた。まるで戸板返しのように、次から次へと見えてくる違う表情に、私はほとんど翻弄されながら、それでも何故か小気味よかった。つかみ所がなかった…緊張した…はかりしれなかった…。それは、私が食べてしまいそうな“いたいけないウサギ”のようでもあった。それは、私が食べられてしまいそうな“獰猛な豹”のようでもあった。
金利惠の魂は、奥底に沈んだ遠い記憶から長い時間を経て、『道成寺』と出会ったのであろう。今、鐘をならすのは金利惠、あなたなのである。
*2005年「韓舞 白い道成寺」プログラムより


「もう一つの祖国へ 金利恵さんの韓国伝統舞踊」

伊東順子/ジャーナリスト(ソウル在住)

一昨年5月、ソウルで行われた金利恵さんの舞踊ソロ公演『麗しくしなやかに羽広げん』(文芸会館大劇場)は、爽快な衝撃だった。私がこれまで見てきた韓国伝統舞踊の舞台とは明らかに違う何かがあった。
同じ伝統舞踊でも日本のそれと違い、韓国の場合は踊り手にかなりの自由と即興が許される。その意味では文字通りの無形文化財であり、かなり独創的な舞台も可能である。ところで、利恵さんの場合はその反対だった。テキスト(伝統)に対する真っ向からの忠誠。あいまいに体を流すことはせず、細部にまで責任をとろうとする潔癖性。繰り返すが、私がこれまで見てきた韓国の伝統舞踊にはない、清廉さと意志の強さが感じられたのである。
それは何故だろう? そう思っていた矢先、偶然、北原白秋が1920年代に書いた一文にふれる機会があった。
「朝鮮或いは琉球出身の若い詩人たちは日本語感に対して格別先鋭である」
これかもしれない、と私は思った。
引用者はこの一文を冒頭に掲げつつ、北原白秋がもっとも期待したといわれる朝鮮出身の詩人鄭芝溶(チョン・ジヨン)の、その舌を巻くほど洗練された日本語について語っている。
「文法以前から日本語とつきあってきたものとは違う一種の清明さ、日本語にもたれかかることのないすがすがしさ、見晴らしのよさ。彼らは一語一語を『何となく』選ぶことをしなかった。一語一語の粒立ち、白秋はそれをこそ愛したのだと思う」(『わかりさうなすがたのひと』斎藤真理子、2000年)
日本生まれの在日韓国人二世である金利恵さんにとって韓国の伝統舞踊とは、そのようなものではなかったのか。舞台でのいさぎよさ、緻密さ、潔癖性は、彼女には「韓国的なるもの」への無意識の甘えがないからではないか。
さらに前出の論文からの孫引きになるが、『朝鮮民謡集』の翻訳などで知られる金素雲は、「韓国人の私が日本人よりも日本語ができるのはあたりまえだ。私は日本にいた40年間、一瞬でも日本語を聞き流したことはない。日本語は私にとって外国語であったため、一言半句をも一旦耳に止めて、考えながら使うのである」とも言っている。
金利恵さんは28歳で韓国を訪れ、韓国語と韓国舞踊を学んだ。それから現在までの20余年間は、まさにそういう年月だったはずである。
もちろん世界には外国語や外国の舞踊を習得し、それで活躍する人はやまのようにいる。
芥川賞候補となったスイス人作家やボリショイバレエ団の日本人ダンサー……、成功した人々は並々ならぬ苦労をしただろう。でも、私があえて利恵さんと植民地時代の朝鮮人詩人を結びつけるのは、両者とその当該国とのぬきさしならぬ関係を考えてのことだ。それは「ただの外国」ではないのである。
植民地時代の朝鮮青年にとって日本は祖国を奪った張本人、日本語は自分たちを抑圧する支配者の言語だった。一方、金利恵さんにとっての韓国は「祖国」である。本来ならば知っているはずのリズム、呼吸、身体の流れ……。それを慎重に選び取り、同時に肉体の奥深くに潜む、遠い遠い記憶に語りかけていく。彼女の稽古はそんな気の遠くなるような作業の連続だったのだと思う。そうして20年目にして初めて行ったソロ公演は、いよいよ金利恵の韓国舞踊が自分で立つ、その宣言なのだと思う。夫君、金徳洙氏の十八番である「伝統の再構築」は、金利恵をしてもっと華麗に行われるかもしれない。
それにもまして金利恵さんの身体の語法は、他のどんな韓国舞踊家よりも私には親しい。同じ日本で生まれ育ったものどうし、やはり共通の感性があるのだと思う。「だからこそ」、私は利恵さんに言ったのだ。次は日本でやろう、あなたを育ててくれたもう一つの祖国で「凱旋公演」をしようと。
*2003年「韓舞 白い道成寺」プログラムより